空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
No  332

2017四国歩き遍路18~宇和島城

5月6日続き。

午前中に宇和島城へ。
石垣がうつくしい。

12宇和島城石垣bg

ちょうど石垣の整備中。高い・・。

13宇和島城石垣整備bg

海が見えて来た。

14宇和島海bg

何かの建物の跡。

15宇和島城跡bg

お城が見えて来た。

16宇和島城bg

宇和島城天守閣

17宇和島城天守bg

入場券に牛鬼の説明。

18牛鬼説明bg

宇和島城の説明はこちら。

19宇和島城説明bg

宇和島城下。

20宇和島城下bg

スビャラシイ。

21宇和島城下bg

天守から海も見える。

22宇和島城から海bg

城内に飾られていた屏風絵。

23宇和島城屏風bg

宇和島城案内板。

24宇和島城説明bg

午前中で観光を終え、宇和島駅から電車に乗る。

25宇和島駅発

岡山駅で買った吾妻寿司備前ばらずしは美味しかった。
リピしたい

26岡山駅ばらずしbg

また来年です


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No  333

2017四国歩き遍路17~和霊神社・宇和島ねこ

5月6日。

朝はホテルと同じ建物の1Fのベーカリー 『ウイリーウインキー』 で購入。

宇和島ウイリーウインキーbg

面白いのは四国の形をした “しこく88パン”。
(期間限定2017.6.30まで。JR四国管内の主要駅にあるウイリーウインキーで。またやってほしい・・)

1四国パンbg

素泊まりは気まま
朝一番に、歩いて10分もかからない和霊神社へ。

2和霊神社bg

宇和島市街地の北端、鎌江城跡に鎮座する。宇和島藩家老・山家公頼(通称 清兵衛)を主祭神とする。公頼は伊達政宗の家臣であったが、元和元年(1615年)政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに従い、その家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。しかし、元和6年、藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、公頼とその息子らを殺害させた和霊騒動)。公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、また公頼の無実も判明したため、承応2年(1653年)、秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。享保20年(1735年)に現在地に遷座した。

立派

3和霊神社bg

本殿。

4和霊神社本殿bg

牛鬼

牛鬼は5~6メートルの牛をかたどった竹組みの胴体に丸木で作られた長い首と恐ろしげな鬼面の頭、剣をかたどった尻尾がついており、全身はシュロの毛または赤色の布で覆われている。『枕草子』には「名おそろしきもの――牛鬼」と記され、近隣の村にはほら貝を鳴らすような声をあげて走り回る牛鬼を山伏が退治した説話もある。頼山陽(らいさんよう)著「日本外史」によると、「豊臣秀吉加藤清正に朝鮮出兵を命じた文禄の役(文禄元年・1592年)に清正が韓国の慶尚道・晋州にある晋州城を攻めるときに、亀甲車を造って城の上から射おろす矢や、投げつける石を防いだのが始まり」と言われている。亀甲車とは、堅板で箱の形を作り、それを牛革で包んで、牛の生首を棒に刺しその先に掲げ、中に兵士が入って攻め戦ったものと言い伝えられている。清正は、黒田長政らとともに城に攻め入りこれを陥落した。この武勇伝を、藤堂高虎が宇和島に伝えた。この朝鮮出兵の際の亀甲車の話が、宇和島やその周辺に、牛鬼というものが出来た起源であろうといわれている。ちなみに宇和島の牛鬼の歴史はおよそ200年と言われている。現在の宇和島の牛鬼のように、胴体に赤い布(きれ)をかぶせる様になったのは、昭和の初めからだと言われている。

7宇和島牛鬼bg

宇和島らしい。

6和霊神社&牛鬼bg

朝のお参りは気持ちがいい。

8和霊神社bg

公園に宇和シマにゃん。

9宇和島にゃんと緑bg

なかよし。

10宇和島にゃん2

ここにも石丸さん。

11ふとんの石丸bg



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No  331

2017四国歩き遍路16~宇和島・ふくめん&鯛めし

5月5日続き2。

JTBのポイントで安く泊まれた宇和島駅の真上のビジネスホテル。
15時前にチェックイン。ホテルクレメント宇和島

ホテルクレメント宇和島bg

ビジネスホテルといってもキレイ。

82ホテルクレメント客室bg

晴れた市内を一望。
山が迫っているのだな。

87宇和島市一望2bg

宇和島城遠望。

88宇和島城遠望bg

部屋から見下ろす駅前ロータリー。

89宇和島駅前2bg

荷物を整理して表へ出てみる。18時頃。空キレイ。

91宇和島大通り2bg

夕飯はホテルからスグ。名物が食べられるかどやへ。

かどやbg

ふくめん

ふくめん1bg

混ぜたふくめん。

ふくめん2bg

郷土料理の数々。

93宇和島郷土料理bg

これがうわさの宇和島の鯛めし

94宇和島鯛めしbg

外へ出るととっぷりと暮れていた。

96宇和島の月bg

帰り道。宇和島名産直売所。ココ、いいですヨ。

97宇和島名産即売所1bg

闘牛のタオルや、牛鬼のTシャツを買った。

宇和島駅前土産物店bg

宇和島の夜。

100宇和島の夜bg

夜の宇和島城。

101夜の宇和島城bg

おやすみなさい。


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No  330

2017四国歩き遍路15~宇和島

5月5日続き。

お昼のパンを岩松の町外れで買う。
メゾン・ド・ソレイユ
行った人のブログ

37メゾン・ド・ソレイユbg

パンを仕入れてまたてくてく。
ちょっと行った左手にもお昼にいいお店、『あすも』があった。
美味しそうなお弁当や米粉パンがある。そこでも食べれる。

宇和島市津島町高田のあたりの景色。

38宇和島市津島町高田bg

松尾トンネルを越す。

41松尾トンネル2bg

祝森地区の普門禅寺子安地蔵堂。(境外仏堂)
国道56号から斜め左にちょっと逸れた細い道沿いのこの石段でお昼にする。

52祝森子安地蔵石段bg

いい子安地蔵さま。門前をお借りします・・合掌。

境内の立看板より(読みづらいところは一部勝手に現代語訳)/旧記の伝える縁起によれば、弘法大師諸国で人々を教え導く道すがら柿ノ木の郷に厚く神仏を敬い、孝行な兄弟の噂を耳にして、旅僧の装いのまま一夜の宿を乞われた。兄弟は快く応じてねんごろにもてなした。大師は信心深く素直な兄弟に報いようと自ら二体の石仏を彫って与えられた。兄弟はこの奇縁に深く感動して兄は地蔵尊松ヶ鼻に、弟は青面金剛松尾坂の麓に小祠を営み、崇敬し供養を怠らなかった。それから幾星霜、いつの間にか小祠は流れ果て、石像の本尊は自然に地下に埋もれ幾百年の歳月は流れた。延宝5年(1677年)3月頃、深田の庄屋河野の祖先、河野勘兵衛通行河野伊予守道直四世の孫)文学・武芸にすぐれ、幾度かの戦功により功成り名を遂げて祝森に老後、悠々自適の閑日月を送る。3月弥生の空、たまたま瓢箪を携え杖をついて松ヶ島の山中に遊んだ。興の趣くままに任せ酔餘石を枕に心地よく睡境に入る。すると何処からか、かたじけなく和やかな相好をしたひとりの旅僧が現れ、「我は地蔵菩薩なり。この山の中腹にあり。大樹の下深く地中に埋まる。十方の人々を教え導く事から遠ざかって久しい。今再びこの村に出現して衆生を救わんと思う。土中をうがち、我を堂内に安置せよ。もし人が我の名を称し敬い供養するならば、もろもろの災禍を除こう。女人が我を信仰するならば安産ならしめる。我、汝が忠実で素直であることを知り汝に告ぐ」と忽然として去る。と同時に通行の夢は覚めた。不思議な夢を見たが深く意に留めなかった。だが、次の夜も次の夜も同じ夢告を受けた。ついに尋常なことではないと沐浴潔斎してその山腹に専心、霊夢を蒙る地下深く埋没由来の発掘すべき地相を教示したまえと祈念する。更に下僕を従え共に発掘に従事する。果たして教示の如く地下八尺(約2m40cm)に至り尊像を拝することとなった。感極まり、丁重にこれを祀る。そして松ヶ島に仮堂を営み、遷座安置する。時に延宝5年(1677年)3月23日。

祝森子安地蔵bg

ソレイユのパン群。やさしい味。
左の茶色いのは塩パン。

45ソレイユパンbg

ここいらには石丸の地名が。
石丸城帰りなので気になる。

54祝森石丸バス亭bg

ここにも。

55石丸自動車bg

あすこにも。

56石丸公園bg

宇和島市内に入った。

64宇和島市内1bg

いきなり歴史がありそう。

元結掛(もとゆいぎ=もっといぎ)の地名のいわれは、信仰の厚い人が、仏道に入るため頭をそって、その髪を「元結い」(まげをしばる紐)で馬目木(まめき=うばめがしの事。現在宇和島市の木。)に掛けておいたから「もとゆい木」と呼ばれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結いがこの馬目木の枝に引っかかるので名づけた、とも言われている。この辺りは徒士や足軽階級の小さなお屋敷やお長屋が多くあったそう。

57宇和島元結掛bg

いい感じ。

58宇和島元結掛2bg

伊藤大輔生誕の地。
日本の映画監督、脚本家(1898年10月12日生 - 1981年7月19日没)。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。

59伊藤大輔生誕の地bg

馬目木大師(まめきだいし)

62馬木目大師2bg

由来。

弘法大師が開かれた九島鯨谷願成寺は、四国霊場四十番札所・観自在寺(愛南町)の奥の院だったが、離れ島に渡らなければならず大変不便だった。そこで寛永八年(1631)元結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺と言った。この寺は明治になってからさらに現在のJR駅の近くの竜光院に合併された。この大師堂が「馬目木大師」といういわれは、弘法大師が九島に「鯨大師」をつくられたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのは大変不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遙拝所を設けられた。そして「これにお札を掛けよ」と言って馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておいたら、いつしか根づいて葉が茂るようになったという。現在もお堂と馬目木が残り、土地の人々の深い信仰の対象となっている。

60馬木目大師由来bg

大村益次郎住居跡。

元の名は村田良庵(または亮庵のち蔵六)、周防国出身(今の山口県)。早くから大坂の緒方洪庵塾に学び医学はもとより兵学にも詳しく、塾頭を勤めたほどの秀才だった。27歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。長州藩もこの英才に気付かず、一村医者としての不遇な生活を3年送る。大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来訪。高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として宇和島藩主伊達宗城に推挙される。高野長英が去ってから、宇和島藩はこれに代わる洋学者を求めていた。大村は兵書の翻訳・研究や、軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、江戸に上ることを請い、宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去った。江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、宇和島藩士の身分のままで兼ねることになった。こうなると出身地の長州藩の方では、この人材を見逃したことが残念でたまらない。宇和島藩へ移籍方の頼み込みがきた。たまたま時の藩主宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係もあるので、無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、長州藩へ移籍させた。宇和島藩在籍は約七年間であった。第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍の胆を寒からしめ、明治元(1868)年~明治二年の戊辰戦争には東征軍参謀としてその優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立するために努力したが、道半ばにして保守反動派士族の凶刃に倒れた。

 65大村益次郎住居跡bg

この辺もいい感じ。

66宇和島市内2bg

お、鷺

67宇和島市内3bg

撮りたい

68宇和島市内鷺1bg

飛んだ

69宇和島市内鷺2bg

勧進橋(かんじんばし)
地元の町民が富くじで得たお金で架けた、あるいは勧進講でお金を出し合ってつくった橋だと伝えられている。

70宇和島勧進橋bg

絹巻せんべいとは?唐饅頭とは?

72宇和島市内5bg

駅前の土産店で売っていた『唐饅頭』。もっちり固めで独特の旨味。

「唐饅頭」という名称の起源は不明だが、宇和島伊達藩の文献によると江戸まで運んだと記載され古くからこの地方では唐饅頭と呼ばれているそう。

宇和島銘菓とうまんbg

宇和島城が見えてきた

76宇和島城4bg

大榎通(おおえのきどおり/おえのきどおり)
伊達家入部以前には板島丸串城の外郭にあたり、堀があった。その土塁に榎が植えられ、後に大榎になったので、この名がついたといわれている。また、上士層の屋敷町でもあった。

78宇和島大榎通bg

泊まってみたい、と思ったが、ちょっとお高め。お洒落にリノベーションされた老舗旅館。
KIYA 木屋旅館

明治44(1911)年、創業。政治家では後藤新平犬養毅、作家では司馬遼太郎吉村昭五木寛之のほか、国語学者金田一春彦らが宿泊。明治時代の旅籠の面影が残る木造2階建て。平成7(1995)年、惜しまれつつ廃業。長らくそのままにされていたが、平成24年春、新しい滞在型の観光名所として再生オープン

79宇和島KIYAbg

お城がある町はいい。

80宇和島城6bg

南国風の大通り。
ゴール という気分。

81宇和島大通りbg

今回の歩き遍路はここにて終了~~。

無事、予定通り辿りつきました。
本年も有難うございました。合掌。

(翌日宇和島駅から帰るが、駅前ビジネスホテルに1泊してあとは宇和島観光。)


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No  329

2017四国歩き遍路14~石丸城跡

5月5日。ちょっと寄り道。

岩松の町を出て、岩松川沿い南側の県道4号を少し遡る。

13石丸城へbg

きれいな田んぼ。

14石丸城付近田んぼbg

対岸の手前ふたつに分かれた山の
右の小山の平らになったところに石丸城があったらしい。

高田に在り、津島殿と呼ばれた越智氏の属城で石丸播磨守平勝繁の城跡。勝繁、天正15年8月13日逝去。嫡子善助落城の後、高田湯中に住み、さらに後、岩松の庄屋となる。その子、伊兵衛と称し、嗣子無く、槇川村の庄屋彦三郎(中国大内義隆の玄(?)孫という)の子を養い、石丸伊左衛門と云う。後、槇川の庄屋となる。嫡男右兵衛豫土篠山境目争論の時、従者六人を連れて江戸に上がり決裁を幕府に仰ぎ、三年を経て帰国。苗字帯刀を許される。寛文三年更に岩松芳原新田の開築を許され、槇川の庄屋は従弟長兵衛に嗣がせた。

クリック→ 実際登った人のブログ

15石丸城bg

岩松川が自然のままでいい感じ。

岩松川の大ウナギは県指定天然記念物(昭和43年3月8日指定) 町中央公民館に体長1.56mのウナギがホルマリン漬けで保存されている。天正年間(約400年前)に高田八幡神社瀬上りの太刀石丸善助により退治された大蛇の化身とも言われる。 大ウナギは、宇和海に注ぐ岩松川の下流や、岩松川の支流の増穂川下流に生息しているもので、昔から名物的な存在として知られてきた。しかし、近年は河川の改修が進み、ほとんどその姿を見ることができなくなっている。 この大ウナギは別名アカウナギ、カニクイ、カニクイウナギとも呼ばれ、赤味を帯びた灰色の皮にゴマ模様の斑点があるのが特徴である。しかし、脂が多く、身はしまりがないので食用には不向きとされている。 なお、これまでに発見されたもののうち、最大のものは昭和10年(1935)に捕獲した体長2m、重さ21kgのもの。 だそう。

この伝説の石丸善助は石丸城主、石丸播磨守平勝繁の嫡子のことだろうか?

16石丸城2bg

自然が残っているように見えるが、大ウナギはもう生息していないようだ。残念。

この橋を渡る。正面の高い山には釈迦ケ森城という越智氏の城跡があるそうな。
前述のブログ参照この辺りは城跡が多い~ね~。

19石丸城付近橋bg

橋の辺りのパノラマ。橋の向こうの右寄り真ん中、もこもこした緑の山が石丸城跡。

18石丸城付近橋パノラマbg

橋から下流の景色。

20石丸城付近岩松川bg

橋から上流の景色。
古い橋から新しい相生橋、その向こうに山並み。

21相生橋bg

橋を渡って左折し、岩松川を挟んで北側の県道4号を下流に戻る感じ。
舗装路のガードレール越し。右端に石丸城跡のある山。真ん中の山も印象的。

25石丸城ガードレールbg

いい里。石丸城跡は右側の樹々が盛々した山。

石丸城の里bg

岩松川

31岩松川bg

岩松川沿い散歩道。

32岩松川bg

県道4号沿い。古そうな大樹。樹齢500年以上の「神木一本杉」。

33石丸城付近大樹bg

岩松川上流をもう一度振り返る。

36岩松川bg

昔は敵から守るための城が築かれたという。その昔に思いを馳せる。
まだまだ昔ながらの自然の残る、忘れられない景色となった。



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