空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
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No  239

兵庫~神戸*薬仙寺・三石神社・シルバの寅吉

前回の続き。これらも同じ日に歩いて廻った。

兵庫大仏(能福寺)
延暦24年(805)最澄伝教大師、開創。大師自作の薬師如来を堂に安置し、能福護国密寺と名付けた我が国最初の教化霊場。治承4年(1180)の福原京遷都に伴い平清盛公が出家。江戸時代初期より明治維新まで、京都青蓮院門跡の院家職を勤め、京都以西では西日本唯一の格式を有す。境内には、日本の新聞の父といわれるジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が記した日本最初の英文碑や、日本三大佛の一つに数えられた兵庫大佛がある。

兵庫大仏

薬仙寺
天平年中(729~748)行基が開山したと伝えられる。天台宗からのちに時宗に改宗。天平18年(746)に日本で最初の施餓鬼会を行ったとされる。この寺に湧いた水が、隠岐より帰京の際の後醍醐天皇の頭痛を癒したという故事があり、寺名を賜る。境内には、平清盛後白河法皇を閉じこめたという「萱の御所跡」の碑が残されている。

薬仙寺

薬仙寺の、薬師出現古跡。(後醍醐天皇を癒した霊泉)

薬師出現井戸

三石神社
御祭神:神功皇后、天照皇大神、素盞嗚大神
三石神社の鎮座地である和田岬は、神功皇后摂政元年(200年)、三韓遠征凱旋の帰途、船がこの辺りで潮に巻き込まれて前に進まなくなって上陸され、三つの石を立てて神占いをした結果、廣田・生田・長田・住吉の神々を其の地に祀らしめた儀式の地。その時の滞在地は現在御崎八幡神社が建っている土地だと言われている。神功皇后は立派な馬を連れており、地元の人々がこの馬に秣を献上したというエピソードが残されている。602年、推古天皇がこの地で禊(みそぎ)をし、そこを祓殿塚(はらいどののつか)といい玉座にした石が三石。天平時代、行基和田泊を興した時、神功皇后の神霊が現れ、船の往来を守るといわれたので、祓殿塚の旧跡に祠を立て神号を往来神・雪気神(ゆきけのかみ)とした。文禄2年(1593年)、雪気神を三石大神と改称。三韓遠征に向かう際に産気づいた神功皇后が、月延石や鎮懐石といわれる3つの石を腰に巻いて出産を遅らせ、帰国後無事に出産を果たしたという伝説なども残されており、こういったエピソードが神社の名の由来ともなったよう。 もともと神社は、現在地より東南300メートルばかりの地にあって元三石といったが、三菱神戸造船所設立に伴う鉄道用地となるため、明治39年に現在地に移った。

三石神社

境内の三石

三石

大輪田泊の岩椋
この花崗岩の巨石は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4tの巨石20数個と一定間隔で 打ち込まれた松杭とともに発見された一石。当時は、平清盛が築いた経が島の遺材ではないかと考えられていた。その後、この石材が発見された場所から北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、 古代の港湾施設と考えられる奈良時代後半から平安時代中頃の大溝と建物の一部が発見されました。このことにより石材が発見された場所は、当時海中であったと考えられ、出土した石材は、古代大輪田泊の石材であったと推定される。岩椋(いわくら)とは、石を積上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられる。その構造は出土状況から、港の入り口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、堤を 構築していたものと推測される。(説明板より抜粋)

兵庫津港石

築島橋から見る海。
古代の大輪田の泊や、清盛の経が島はこのあたりだったのだろうか・・?

兵庫津


三宮までもどって、街中の森カフェ、グリーンハウスシルバヘ再訪。

カフェ入口

ビルの谷間の木立の奥に・・。

グリーンハウスシルバ

ああ、また頼んでしまった・・。オ・コニャック。

オ・コニャック

帰り道。

寅吉の林

この日はいた 看板犬、寅吉

寅吉


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No  238

兵庫~神戸*名号石・一遍廟・中華街

順番は前後し、すっかり遅いUPですが4月のおでかけ。
以前行った法然上人ゆかりの元祖教会再訪。

なんと、今回は管理人の方がたまたま出て来こられ、中へ入れてくださった。
間近に名号石(みょうごうせき)を拝む。

元祖教会名号石

この石の足元の窪みの水は聖水とされていて、飲んでいいとのことで一口。
ちょっと金属的なお味。聞き違いでなければ水道水をここに注いでいるというような・・。
が、この石に触れた水ということで崇められたのはよく分かる。

元祖教会聖水

入口は分かりにくいのでこういった案内看板がある。

元祖教会案内

この日やはり再訪したのは法然上人から始まる系譜、
同じ南無阿弥陀仏の信仰者としても
また極まった感のある一遍上人御廟のある真光寺

兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり時宗宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより正応二年(1289)八月二十三日観音堂に於いてご入寂、その後兵庫の信者達によって荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納め、お木像を御影堂に祀った。

今回気づいたのは清盛が訪れた時にもてなしたという井戸。(写真手前)
平清盛公が当寺に弁才天を勧請した時に、僧がこの井戸の水でお茶をたてて献上した。(案内板より)

真光寺清盛井戸

相変わらずここの独特な空気感は数あるお寺の中でも特に好きな部類。

真光寺

この門の向こうに一遍上人の御廟があるが敬意を表して撮影せず。

一遍上人御廟

浄土信仰の中でも名僧はもちろん多々おられましょうが、
ある意味、私が思う南無阿弥陀仏信仰のツートップ
に想いを馳せることの出来るこの兵庫の地でした・・。


お昼は元町の中華街へ。

中華街西安門

お目当てはこの店。

民生

名物といえるイカ~
やはり美味

民生イカフライ



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No  237

秩父行3~日本武神社・泰山堂

武甲山はやはり秩父の象徴

武甲山2

どこから見ても存在感がある・・。

日本武尊が、自らの甲(かぶと)をこの山の岩室に奉納したという伝説が
元禄時代の頃から定着したそう。

武甲山3

秩父には三峰神社もそうだし宝登山神社もそうだし
日本武尊の伝承が様々残っている。

ここはその名も日本武神社
日本武尊が東征の帰途ここを通過し、里人が祀ったというのが起源。その後、天台修験と関係した時代が長く大般若経十六善神も祭神とされた。例大祭では、神楽殿にて神楽や歌舞伎が休憩をはさみながら12時から20時まで長時間にわたり行われる。小鹿野町は“歌舞伎の町”で知られ、この「十六様」が小鹿野歌舞伎の一年の幕開けとなる。

秩父日本武神社

思っていた以上に綺麗な境内。

秩父日本武神社祠


こちらは武甲山を神奈備山 (神が鎮座する山) とする秩父神社近くの
路地にあるカフェ泰山堂の前より。武甲山。

泰山堂から武甲山

このためだけでも秩父に再訪したい、というカフェ、泰山堂

泰山堂

食べたことのない、忘れられないケーキの味スバラシイ

泰山堂ケーキ


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No  236

秩父行2~秩父神社

秩父といえば・・三十四観音札所でも有名ですが
秩父神社も外せない?

秩父神社全景

秩父神社の創建は『先代旧事紀国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っている。中世以降は関東武士団の源流平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めた。現存する社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康が寄進したもので、県の有形文化財。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。

ココは夜祭でも有名ですが、彫刻の数々もスゴイ。

秩父神社

つなぎの龍左甚五郎作
その昔、秩父札所十五番小林寺近くに「天ヶ池」 という池があった。その池に住みついた龍があばれた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができて いたことから、この彫り物の龍を鎖でつなぎ止めた ところ、その後、龍は現れなくなったという不思議な伝説が伝わっている。ご本殿東側の鎖でつながれた青い龍の彫刻こそ、 この伝説に語られた「つなぎの龍」の姿。昔から日本人は、家や地域の四方を青龍、朱雀、 百虎、玄武という神使が守っていると信じてきた。この彫刻も、当社の東北(表鬼門)を守護する 青龍の姿を、社殿彫刻に施したもの。

秩父神社つなぎの龍

北辰の梟
本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰の梟」といって、体は正面のご本殿に向き、頭は正反対の真北を向いて昼夜を 問わずご祭神をお守りしている。当社のご祭神である妙見様は、北極星を中心とした北辰北斗の星の信仰で、この梟の見 ている方角に妙見様が出現することからも、 ご祭神と特に縁深い瑞鳥であると言える。洋の東西を問わず、梟は智恵のシンボルと 考えられており、当社のご祭神、八意思兼命智恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、 思慮深い神使として社殿北面に施されたものと思われる。

秩父神社北辰の梟

拡大。

北辰の梟

子宝 子育ての虎左甚五郎作
武田信玄の手により、永禄十二年(1569年)に焼失した後、徳川家康より現在の社殿が再建された。家康公は、寅の年 寅の日 寅の刻生まれということで、それにちなんでか当社の拝殿前は四面にわたってすべて虎の彫り物が施されている。特に拝殿正面左より二つめの、子虎とたわむれる親虎の彫刻は、家康公の威厳とご祭神を守護する神使として彫刻したものと伝えられている。当時の狩野派で は、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法とされていたことから、母虎があえて 豹として描かれているのが特徴的。

秩父神社寅

神門の上でくつろぐ鳩たち。

秩父神社鳩

お昼は神社の近く、武蔵屋

秩父武蔵屋

歩いて行けるところに武甲酒造も。

武甲正宗



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