空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
No 

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No  241

岡山~高梁

高梁で泊まった宿。
屋根の美しい元仲田邸くらやしき

旧仲田邸瓦屋根

中はこんな感じ。

旧仲田邸内

ちょうど牡丹の頃 (5/24)

旧仲田邸庭

庭の草花。

元仲田邸庭

邸内より蔵と祠を望む。

元仲田邸内より

夕食が美味しかった~
私は少食の方なので松花堂弁当仕立ての¥1500(+税)でお願いした。十分
郷土懐石¥3000にするとお魚や天麩羅なぞが付く。

旧仲田邸夕食

朝食がこれまた美味い¥500。
ごはんを食べるためだけにでもまた泊まりに来たいぐらい。
松花堂弁当なら一泊二食これで¥5000(+税)。

旧仲田邸朝食

備中高梁城
この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。毛利氏の東方進出の拠点として、また毛利氏が退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次正一 (遠州) 父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていた。現存天守12城の中で備中松山城は、天守の残る唯一の「山城。市街地の北端にそびえる標高約480mの臥牛山は、「おしろやま」の愛称で親しまれている。

備中高梁城石垣

思ってたより明るい。

備中高梁城

城の内部から。

備中高梁城2

頼久寺
暦応二年(1339)足利尊氏安国寺として建立した禅寺。特にその庭園は有名で小堀遠州の築庭と伝えられる禅院式枯山水蓬萃庭園 (鶴亀の庭) で、愛宕山(あたごやま)を借景に砂の波紋で海洋の感じを出し、中に鶴亀二島を配し、大海の波をあらわすサツキの大刈り込みで背景を整えている。この豪華な大刈込み遠州独特。江戸初期の庭園としてはわが国を代表するものの一つ。

頼久寺

有名な鶴亀の庭

頼久寺庭園

大刈り込みのサツキを横っちょから望むのもいい。

頼久寺庭

頼久寺山門。向こうの山の景色が額縁のように映える。

頼久寺門

お昼は市内の方谷庵

方谷庵

中に入る。

方谷庵中

十割蕎麦。

方谷庵そば

帰りの腹ごしらえにゆめタウン高梁駐車場の夢風船
インディアントマト焼きそばを買って帰る。
気に入り過ぎてばくばく食べてしまい写真なし・・

夢風船



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No  240

岡山~成羽美術館・吹屋

ずいぶん前になってしまい・・
去年のことになりますが、5月23日。
岡山県の高梁市にある成羽美術館三沢厚彦の木彫の「アニマルズ」展に行く。

成羽美術館ワニ1

原寸大以上ある大きな動物群が楽しい

成羽美術館ワニ2

一刀一刀の手彫りのタッチが甘すぎず辛すぎずのいい塩梅。
飄々としながらも存在感の素晴らしい三沢ワールドに魅了されました。

成羽美術館ワニ3

そこから吹屋へ向かう県道300号

県道300号1

地図上吹屋まで近いからと通ったのだが、すんごい道。
あやうく二股を間違えそうに・・

県道300号2

シカシ、こういう車道を通る体験もそうなく、ここなど少々興奮

県道300号3

洞窟を通るようなトンネルもアリ。

ブジ、吹屋です。
高梁の市街地から北西10km程の山の中にある集落。古くから銅山で栄え幕末から明治にかけては銅山の副産物として採れる赤色顔料「ベンガラ」の日本唯一の生産地として繁栄した。赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された見事な町並みが整然と続く。豪商が財にあかせて建てた豪邸は全国各地に見ることができるが、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にある。昭和52年には文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の認定を受けた。

吹屋

ワン がいい感じ。

吹屋犬

木造の吹屋小学校
2012年3月末まで現役の「日本最古の現役木造校舎」だった旧吹屋小学校。NHKの連続テレビ小説「カーネーション」のロケ地にもなった。

吹屋小学校1

和む。校舎。

吹屋小学校2

隣の敷地には食事や宿泊の出来るラ・フォーレ吹屋もある。

あまり観光客がいかない町並みのはずれには本山山神社跡がある。

祭神は山神様さんじんさま)。本山山神社の創建の年は判然としないが、大塚氏吉岡鉱山稼業の歴史の中で、明和2年(1765)水抜きが完成し盛業したといわれ、境内にある手水鉢の寄進が、明和7年(1770)と刻まれていることから、その間に創建したと思われる。現在の本殿は伝承によると、江戸末期、本島(丸亀市)の長尾林蔵という宮大工が来吹して建てたと伝えられ、総欅造りで巧緻を極めている。<案内板より>

吹屋本山山神社鳥居

銅山の守護神として長い間手厚く祭られていたが、昭和47年(1972)の廃山により
次第に過疎化が進み、祭りごとも意のごとく成らず

ご神体は現在、高草八幡神社に合祀されている、とのこと。

吹屋本山山神社

何もない、というところが、妙にいい。かえって一番印象に残る・・。

本山山神社境内

昔懐かしボンネットバス。ぼんばす要予約。往復¥3000。
JR備中高梁駅東口から吹屋町並みまで(70分)行って30分のガイド付き
ベンガラ館笹畝坑道広兼邸も巡回。

吹屋ボンバス

吹屋中心部より南に3kmほどのところに広兼邸
江戸時代後期に小泉銅山ローハ(緑礬・硫酸鉄=ベンガラの原料)製造を営み巨大な財を成した大野呂の庄屋広兼家2代目の元治が建てた巨大な邸宅。1977年の松竹映画『八つ墓村』などの映画のロケ地としても知られる。平成28年2月末まで屋根瓦吹き替え工事中で入館禁止

広兼邸

行った時はちょうど牡丹の時期で、生け花の展示のイベントをやっていた。

広兼邸内

お昼は吹屋の町並みの駐車場のところにあるお食事処いろりで。

吹屋いろり茶屋

胡麻たっぷりのうどん。¥500。美味しかった

吹屋そば



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No  247

美保関~美保神社

出雲の旅最終回。
美保関は2回目だが、美保関灯台は初めて行った。

美保関灯台

予想以上に素晴らしい景色

地蔵崎

沖の御前・地の御前(美保関灯台の裏にある)
美保神社の飛地境内とされる「地の御前」とよばれる場所で、かつては漁師が航海の目的に地蔵像を建てたため、別名“地蔵崎”とも呼ばれることも。またはるか沖合い4kmには、1200万年前に隆起してできた島で、この地域では一番古い土地と伝えられる「沖の御前」という場所もあり、こちらは出雲神話に出てくる、ゑびす様こと「事代主命」が日本の文献上最初に鯛釣りをしていたとされる伝説の名所。そのため漁業の祖神とされ、ここから釣りをしながら船の安全を見守っているとも伝えられており、毎年5月5日には、沖の御前を舞台に「神迎え神事」も執り行われている。

鳥居の向こうは海

地の御前

お昼は灯台ビュッフェで。眼前海原。開放感。

灯台ビュッフェ

旅の締めくくりは美保神社
全国各地にある事代主神を祠る「えびす社」3,385社の総本宮。大国主命の御后神、三穂津姫命も祀られている(美保関の名の由来)。天平5年(733)編纂の『出雲国風土記』などに社名が記されており、遅くともその時期には「社」が存在していた。境内地からは4世紀頃の勾玉の破片など、宗教儀式で捧げたと考えられるものが出土しており、古墳時代以前にも何らかの祭祀がこの地で行われていたことがうかがえる。事代主神とは国譲りの際、国の一大事に身をもってあたり代わられ、見事に成し遂げられたご功績をそのまま御神名にしたもの。本来「事知主神」であって、世の中のあらゆる事を知り、その正否を正確に判断する神様で、誠の守り神ともいわれる。

美保神社

今回は小さな太鼓を打つ人がパワフルな奉納太鼓をしていた。
両御祭神はそういった歌舞音曲、鳴物を好まれるそう。

平成4年には明治の初頭以来途絶えていた「歌舞音曲奉納」を100年ぶりに復活させ、一流の演奏家が神前に向かって(聴衆に背を向けて)演奏し、聴衆は一切の拍手をしないという独特の音楽祭が行われている。

美保神社シルエット

以前来た時もちょうど巫女舞が始まって、その鳥肌ものの鈴の音は今も覚えている。

威厳と開放感と両方備えた拝殿の造りがいい。音響効果も抜群、らしい。

美保神社本殿

鳥居の前はすぐ海。

美保神社鳥居

こんな通りも。青石畳通り
右の建物は泊まりたかったがとれなかった文化財のお宿、美保館

青石畳通り

帰りは伯耆大山を望みながら・・。

大山



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No  246

安来・清水寺~紅葉館

出雲つづき。2泊目。
行ったのは神在月(かみありづき) だったので宿はどこも混んで高い。
少し離れた安来に、松江や玉造温泉より高くないいいお宿を見つけた。
休前日でも¥11880(2名以上税込)

紅葉館安来清水寺境内にある精進料理の宿
これが部屋からの“錦の”景色ですッ

紅葉館景色

“紅葉館”の名がこれほどピタリとくるところもそうはない・・。カンドウ

こちらが清水寺本堂。けっこうな歴史がある。

厄払いの寺として慕われる清水寺は、1420年余前、用明天皇2年(587年) 尊隆上人によって開かれた。 寺伝によると当時は山深く、近づく者とてない山であった。夜になると里に向かって一条の光が現れ、里人を怖がらせていた。そんな折、山陰道を巡錫中の尊隆上人が通りかかり、光の源を探るべく山の中腹まで登ってくると、1人の白髪の老人が現れ「今日まで観音様をお祀りしてきたが、そろそろ次の世に往かねばならぬので替わりに観音様をお祀りしてくれる人を探していた」と、観音像を託された。尊隆上人が小さな草堂を結んでそれを安置したのが始まり。当時は水が一滴も水が出ず、一週間の間水が出るように密行を施すと、草堂の直ぐ側から水が湧き出し、常に清い水を湛えたことから清水寺と名づけた。

清水寺

推古天皇端夢に清水の観音の厄払いの霊験あらたかなるを感得され、 堂塔伽藍を賜る。 その後荒廃し、中興の盛縁上人16歳で登山、復興に努めるも道険しく、そんな折、平城天皇瑞夢にてその努力を知り、堂舎を再興、大同元年(587年)中国隋一を誇った 七堂伽藍を完備した。 承和十四年(847年)11月、慈覚大師(天台座主円仁)唐留学の帰路、当山に立ち寄り、光明真言 の秘法を伝法、これを機に天台宗となる。その際、精進料理(現在の清水精進料理、清水羊羹の元)も伝習される。その後再三火災に遭うも、明徳四年(1393年)4月、再び 大伽藍を復興、今日の寺景をつくる。戦国時代には尼子毛利の戦いに巻き込まれ、毛利によって焼き討ちを受け、根本堂のみを残して焼失するが、毛利家そして江戸時代には松平家代々の庇護を受けて今日の伽藍に復興する。山陰随一の三重塔は安政六年(1869年)1万人講を組織して和尚二代、大工三代の彼岸の末(33年かけて)完成する。高さ33m。総欅造り。

部屋からも見えた三重塔登れるのは全国でも珍しいらしい。
本来は1週間前の要予約。
私たちが予約して開けてもらったところ、ちょうどその場に居合わせた他の観光客の方々も予約なしで入れることとなった。ラッキーですよこれはぜひここまで来たらこの景色を

三十三観音という数とは偶然か?33年かけて造られた33mの三重塔・・。

清水寺五重塔景色

清水寺の見どころは、三重塔(¥200)の他に
この光明閣書院庭園(¥600)寶蔵(宝物館¥300)もある。
*3つセットだと¥900。

清水寺庭

一服お抹茶と清水羊羹付。寶蔵内は撮影出来なかったが、必見の価値アリ

清水寺庭2

境内の黄葉輝く

清水寺黄葉

紅葉館と公孫樹。

紅葉館と銀杏

紅葉館。

紅葉館

紅葉館お食事処より。

紅葉館食事処景色

絶品精進料理
天台座主の慈覚大師が唐から清水寺に伝えたものが元となっている、らしい。
(境内で売られている清水羊羹も。)

紅葉館精進料理

卵を使わない茶碗蒸し。こっちの方が好き

紅葉館茶碗蒸

鰻に見える美味い
(豆腐、山芋、くわい、等を使っているそう。)

紅葉館精進鰻

もっとも、ご主人(カナ?)いわく
美味しい、の声に含み笑いながら
「精進料理ですから美味い不味いというものではないんです。」
というようなひとこと。たしかに。本来は修行の精進ですもんね・・。

紅葉館夜景

部屋からの夜景。

紅葉館朝食

朝は精進ではありませんでした。 やっぱり美味しい。

紅葉館


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No  244

出雲~スサノオ巡り

出雲スサノオシリーズ番外編。

あまり知られていないので番外としたけれど
自分的には今回出雲大社神迎神事の次くらい印象に刻まれる風景・・。

矢口神社
出雲国風土記には「矢口社」とあり、また延喜式には「八口社」とある。須佐之男命八岐大蛇(やまたのおろち)の八つの頭を斬ったことにより八口大明神といわれた。また、大蛇が八塩折りの酒に酔い草枕山を枕に伏せっているところを須佐之男命が矢をもって射ったので矢代郷、式内社矢口社という

矢口神社

草枕
須佐之男命の策略により、八岐大蛇八塩折の酒(やしおりのさけ)を飲んで酔っぱらい、枕にして寝たと伝わる山酒に酔ったオロチが草を枕に寝ているところを、須佐之男命に退治されたという伝説の場所と言われている。

草枕

ひいた風景がまたいい。

草枕2

草枕と尾留大明神への案内看板。

草枕3

尾留大明神跡
八塩折(やしおり)の酒に酔いつぶれた八岐大蛇を退治した須佐之男命(すさのおのみこと)は、この御立薮(おたてやぶ)で大蛇の尾を開いて宝剣を得たが、その宝剣の上に怪しき雲があったので、「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名づけて天照大神に献上、後、それは伊勢の斎宮倭姫から日本武尊の手渡り、さらに後世は三種の神器の一つとして現在も名古屋の熱田神宮に祭られている。この御立薮(現在は畑地)は須佐之男命と稲田姫を尾留大明神(おとめだいみょうじん)と称し広く崇拝されていたが、斐伊川の氾濫により、延亨元年(1744)約200メートル南方のここ大津の丘陵中腹に移転。明治4年に御代(みしろ)神社と改称され、更に大正元年日吉神社地に移転合祀して今の御代神社(南方500メートル)となっている。北西方向には八岐大蛇が酔っ払って枕にしたとされる「草枕山」が見える

尾留大明神跡碑

高台の尾留大明神跡から草枕方面を見下ろす。
この広がる畑地のどこかが、本来の尾留大明神があった場所ということか。

尾留大明神跡

八本杉
須佐之男命八岐大蛇を退治した後、その八つの頭を埋め、八本の杉を植えたと伝えられている。この杉は、長い年月の間、幾度も流失したが、その度に捕植され、現在は明治6年(1873年)に植えられたものが残っている

八本杉

八本杉の鳥居正面から。

八本杉2

八岐大蛇をこの地の豪の者としてみると・・
たしかにここに立てば斐伊川と赤川が合流する肥沃な地勢で
太古より人が暮らすに豊かな土地だったのではないかと想像できた。
ここで須佐之男命となんらかの衝突があってそれが伝承として残っても不思議でない。

そういった言い伝えというのはなにがしかの事実のかけらのようで
いつも至極面白いと感じる

それにしても斐伊川はよく氾濫したのだろう。神社移転も八本杉流失もそれを物語る。
斐伊川を本流から幾筋にも増えた暴れ八岐大蛇にたとえ
それを須佐之男命が治水したという説もまた大いにうなずけなくもない。


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