空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
No  254

岡山~足守

岡山市北区足守の彼岸花。(2015.9.22)

彼岸花

いい感じの酒蔵。板野酒造

足守酒蔵

足守の名所、近水園

近水園

こういうところにしては太っ腹の無料
地元の人にとっても憩いの公園。
ここに住んでぶらぶら散歩がてらふらっと来たくなるよな居心地。

近水園2

お昼はアーボ。探しながら行った。

アーボ

予約でいっぱいだったが、ご好意で入れてもらえた。
ランチのさんま定食、大変おいしかった

アーボさんま



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No  253

岡山~総社/石畳神社・阿曽神社

今回の岡山行で、印象に残ったのは高梁川
“自然”を感じるうつくしさ。
(総社の石畳神社の小さな拝殿の前から望む。)

高梁川

サントピア総社に行く途中
向こうに写る橋を渡る時に気づいた石畳神社
この巨岩が御神体。

石畳神社

川の向こう岸から。
この岩を拝みたくなるのはよくわかる。

石畳神社岩坐

石畳神社御神体の巨岩の下のトンネル脇にあった石仏。

石観音

石畳神社の岩場から少し戻り、さらに左に山道を登って行くと展望所がある。

展望所

ここからの高梁川もいい。
建物をはずすと古代から変わらぬような自然の風景、というのに特に心惹かれる。

展望台より高梁川

足守に向かう途中。阿宗神社(阿曽神社)。
ここ、総社市奥坂桃太郎に退治された鬼のモデル温羅(うら)の妻、阿曽媛の関係地という。(阿曽郷の祝の娘だとか・・)一帯の阿曽郷からは古代製鉄跡が多数発掘された。また吉備津神社の鳴釜神事に使用する釜は、当地の鋳物師によるものと定められている

拝殿はちょっと変わっている。

阿曽神社拝殿

拝殿裏本殿。
御祭神は現在、応神天皇神功皇后玉依姫尊吉備武彦命となっている。吉備武彦命は旧宮原社と称し、旧阿曽村・東阿曽に鎮座されていたが、藩主の木下公が本神社(旧八幡神社)に合祀されたという。そして、八幡神社と宮原社を合祀後、社名を阿宗神社と改称した(年月不詳)。

阿曽神社

総社は自然がいい。

バッタ





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No  251

岡山~酒津・総社

倉敷でお昼を食べた。
街はずれの酒津にあるカフェ、三宅商店
水辺の景色がスバラシイ

三宅商店

入口も花いっぱい。

三宅商店入口

座ると窓から水の流れが・・。
なぜ人は水を見るとボーっとしてしまウのだろう・・。
今は葉のない水辺の木々は桜・・春はさぞや・・

三宅商店窓

カレーです。一目で分かる極旨。

三宅商店カレー

岡山ふるさと旅行券2泊目。
総社の朝焼け。

総社の朝

サントピア総社
元々公共の宿並みの宿泊料なのでそこまでは期待してなかったら・・。
夕食、予想以上の大当たりでした

サントピア総社夕食



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No  252

岡山~総社/宝福寺

岡山、総社の宝福寺
創建の年代は不明。天台宗の僧・日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院であった。鎌倉時代の貞永元年(1232年)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められた。

宝福寺石仏

室町時代、備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は、少年時代ここで修行を行った。絵を描くことが好きであった雪舟少年は修行もそこそこに絵ばかり描いていた。修行に身を入れさせようと禅師は雪舟を柱に縛り付けて反省を促した。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであったという。それ以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなったといわれている。

石像の向こうの方丈が雪舟が修行したところ。

宝福寺雪舟像

仏殿の天井には龍が。

宝福寺天井龍

仏殿の向こうに門のように並び立つ霊木。

宝福寺霊木

紅葉がきれいだった。(2015.9.21)

宝福寺紅葉

竹林と雪舟禅師のことを書いた石碑。うつくしい・・。

宝福寺石碑





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No  250

岡山~倉敷/熊野神社・藤戸寺

下津井から倉敷へ向かう。
鷲羽山スカイラインから水島臨海工業地帯を遠く望む。

水島工業地帯

倉敷、熊野神社
修験道の祖と言われる役小角は文武天皇3年(699年)、呪術で人心を惑わし謀反を企てている疑いがあるとの訴えがあり、朝廷より追われ熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀。社伝によればこの際、5人の弟子達を中心に3年にわたり熊野十二社権現のご神宝を奉じて各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の地に紀州熊野本宮を遷座したとされる。第二殿国の重文第一殿・第三殿・第四殿・第五殿・第六殿県の重文

倉敷熊野神社

天平12年(740年)聖武天皇が児島一円を熊野神社の社領として寄進した。更に孝謙天皇(749~758)が紀州熊野権現に対して<日本第一霊験根本>という称を与えられ、それ以来、倉敷児島の熊野神社は<日本第一大霊験根本熊野神社>と呼ばれる様になった。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見新宮諸興寺)を、山村那智宮(現・由加神社本宮蓮台寺)を建て熊野神社と修験道の寺院が一体となった新熊野三山として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。承久3年(1221年)承久の乱が勃発し、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた熊野神社と寺院を再興し、以後、南北朝の頃まで繁栄した。

倉敷熊野神社

こちらは境内から望む三重塔(県重文)
5人の高弟が熊野神社を遷座した際、それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。頼仁親王が再興した五流の寺院は、南北朝の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。現在も三重塔、鐘楼などは熊野神社境内に接して建つ

倉敷熊野神社三重塔

境内の八尾羅宮(はっぴらぐう)
日本唯一いじめ除け・いびり除け」の神様。金運増大、商売繁盛、資格・入学の合格成就、限界打破や八方破り、病気平癒、厄除け、厄払に霊験があると信じられ<はっぴらさん>と呼ばれて親しまれている。熊野大神の使い神として願い事があると直ちに飛んでこられ悪霊を払い、清浄にしてくださる神様。この神様は八つの尾を持つ「白狐」をお使いにされている。また、児島が陸から離れた島であった頃、折角作った野菜がキツネなどの動物に荒らされて困っていたという話もある。困り果てた氏子の人たちが熊野神社に祈願したところ<神社の西に社を建てれば畑を荒らしていた狐たちがそこに集まるので被害が無くなるであろう>とのお告げがあり、そのお告げに従って熊野神社の西に社を建てたところすぐに被害は減り社に集まった狐たちは熊野神社の守護獣となったという。

八尾羅宮

八尾羅の由来。八つの尾を持つ狐。

八尾狐

藤戸寺
寺伝によれば、寺の周囲がまだ海であった慶雲2年(705年)に千手観音像が海中から浮かび上がり、それを安置したことに始まる。その約30年後、諸国を巡っていた行基により安置してあった千手観音像を本尊とし天平年間(729年 - 748年)に寺院を創建した。寿永3年(1184年)12月、源平合戦藤戸の戦いで戦功を挙げた佐々木盛綱は、戦後、この寺院の周辺である児島郷を領地として拝領し、戦乱で荒廃した寺院を修復したとされる。盛綱は合戦の際に若い漁師が道案内をしたことで武功を立てたが口封じのために殺害したと言われる。その漁師の霊と合戦の戦没者を弔うために当寺院で大法要を営んだと伝えられている。この伝説は謡曲藤戸」として能の演目の一つとなっている。

藤戸寺

藤戸饅頭本舗
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の少年淳之介の母のいる和菓子屋ということでロケ地となった。

藤戸饅頭本舗

藤戸饅頭
傑作 また食べたいと思わせる味。
有名な倉敷土産の「むらすずめ」より好み
岡山土産の「大手まんじゅう」より美味しいという人もいる。

藤戸饅頭



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