空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
No  213

館山2~波音日和

初詣は小塚大師
815年に弘法大師が東国行脚の際、静寂で霊験あらたかなこの山に立ち寄り、密教の道場として、一宇の草庵を建てたのが始まり。

小塚大師入口

ある日、布良崎に鎮座する太玉命(ふとだまのみこと)が現れ大師に告げた。
「衆生のため、また厄年である自分のために庵の裏山の霊木を用いて師の像を刻んで祈るならば、あらゆる災難やわざわいはその像が身代わりとなろう。永くこの地に像をのこし結縁の者に厄難を除かしめられよ。私もまた師の影に随って擁護しよう。」お告げに従い霊木を探し、自ら二体刻み開眼供養をして、
「願わくは有縁の衆生と共に福智円満せしめん。当所鎮守を始め奉らん。諸仏加護し給へ。」と誓い、その内の一体を布良崎の浜より流した。その後、幾年かたって流れ着いた像が現在の川崎大師平間寺に祀られたと伝えられている。

小塚大師

創建当時、大師は金泥をもって金胎の法曼茶羅二幅弥陀六字の大名号『佐野の名号』を書かれた。法曼茶羅を写していた時に井戸の中から黄金がわき出たと伝えられる。その井戸は、現在本堂裏にある閼伽井(あかい)のことである。しかし、この大名号は文安年間(1444~1448年)の兵乱の際に、何者かによって奪い去られたと伝えられている。

源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、船で当国にのがれた時、まず当山に参拝して武運長久を祈願。すると、軍大いに振るい、諸国を征服し遂に征夷大将軍の位についた。そこで頼朝は深く霊感を感じ天下平定後、水田を寄進し、旧堂を修理し新殿を増築し、東関東無比の名刹となったという。
 
開山より1200年たつが、幸いに寺宝である霊像と金泥両界曼荼羅は保存され、弘法大師の霊場として、また川崎大師、西新井薬師と並んで災難厄除けの関東三大薬師として檀信徒の信仰を集めている。



その帰り道沿いに見つけて寄ったのが洲宮神社

洲宮神社2

807年の『古語拾遺』では、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国(現在の四国徳島)へ上陸し、そこを開拓した後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとしているが、社伝によれば神武天皇元年に天富命魚尾山(とおやま)に当社を創建し、当時海辺にあったことから洲神・洲宮と呼ばれたとしている。

また、『斎部宿禰本系帳』では天富命15代目の子孫である佐賀斯の長男・子麿の第2子・夫岐麿が安房郡大領となって「洲の神」を祀り、その18代後の子孫である諸幾1273年(文永10年)に(火災で焼失した洲宮を県道をはさんで反対側の現在地に)洲宮神社として創建したとしている。同書には「文永十年、神宣ニ依テ社頭ヲ明鏡山豊栄地ニ遷シ建テ・・・」との記述があるが、この「明鏡山豊栄地」は現在も御浜降神事が行われる明神山」に比定されている。

安房開拓神話にまつわる神社で、安房神社の祭神天太玉命后神天比理乃咩命を祀っている。延喜式には天比理乃咩命と記されているが、続日本後記文徳実録三代実録では、天比理刀咩神と表記。西岬の洲崎神社と同神で、洲崎神社が拝所、当社が奥宮であるともいう。

旧社地魚尾山より出土した古墳時代後期土製祭祀用具模造品洲宮神社縁起南北朝時代の木造天部立像市の文化財指定となっている。毎年1月1日に農耕神事として行なわれる御田植神事も市の無形文化財。



この後、御田植神事があるので人が集まっているそう。

洲宮神社


元旦のティータイム
カフェ波音日和。一昨年?出来たそう。

波音日和

たまたま通りすがり。

波音日和2

見っけもの

波音日和3

カフェの2Fより。言葉もなく波に見入る・・。

波音日和4




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