空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
No  216

四国行1~和霊神社

法事にて四国へ向かう。
讃岐富士

讃岐富士

叔父さんの家にて。
無事終わる。

ハナ

叔母さんの家へ。
叔母さんが嫁いだ先は和霊神社をお守りしてきたお家。

和霊神社1

この和霊神社。(今治市玉川町法界寺)←本社は宇和島

和霊神社の祭神は、宇和島藩家老山家清兵衛公頼公(やんべせいべえきんより)である。神社は通常、何々の命とか、権現様や八幡様をご神体としているが、ご家老の霊を祀っているのは珍しい。また、百姓・漁民・町人いわゆる民衆の讃仰により祀られたもので、大衆の守護神として信仰を集めた。特に藩政に殉じた山家公が治めた宇和島藩内の民衆に止まらず、 広く他地方の大衆からも敬愛され、著しい和霊神社の隆昌をきたしたところに特異性がある。

山家清兵衛公は、元和元年(1615)仙台から国替えされた宇和島藩祖遠江守伊達秀宗公の家老職として、 百姓や町人の側に立って善政を布いた。しかし、家老桜田玄蕃等と軋轢を生じ、 元和6年(1620)旧暦6月29日に、清兵衛が寝ているところを、青蚊帳の四隅がサッと切り落され、 なすすべもなく無念の42歳の最後を遂げた。以後暗殺に加担した者達が次から次とたたりで変死していった。一方宇和島藩は幾多の危機を山家公の霊によって助けられた。そこで秀宗公は寛永8年(1631)6月に、山家公のご神霊を勧請して、これを児玉明神として祀った。更に承応2年(1653)お社を桧皮の森に移転し、山頼和霊神社と改称された。(←宇和島本社のこと)

その移転が旧暦6月23日だったので、お祭りは旧暦6月23日、24日である。宇和島市の本社の方は、太陽暦の7月23、24日をお祭りとしているが、 法界寺の和霊さんは旧暦の6月23、24日のままである。お祭りの日には、蚊帳にまかれて暗殺された故事により、蚊帳をつらないとのことである。
<玉川ネットより>


和霊神社2

玉川町法界寺の和霊神社は法界寺村の庄屋、浮穴与右衛門包俊(かねとし)が延享3年(1746年)勧請したものである。与右衛門は若いころから病気で悩んでいた。あるとき、大三島の大山祗神社の神官が和霊大明神の霊験を説いたので、宇和島の和霊神社に参詣し、祈願したところ病気が全快した。そこで分霊をしてもらい祭ったというのである。
 「わたしの家は庄屋浮穴家の分家になるのです。」と語る浮穴さんに話を伺った。
 「この玉川町法界寺の和霊神社は、当初庄屋の屋敷神でした。今でも祠が庭にあります。ところが、霊験あらたかだという評判がたち、人々が屋敷内にやってくる。それでは困るということで三島神社へ移しました。参詣者はますます増え、最終的には寛政11年(1799年)現在の地に社殿を建てたということです。」

『愛媛県の地名』には、「今治藩主松平定剛(さだよし)も厚く崇敬し、桑坂山の七反(約70a)余を免地とし、寛政11年新しく本殿・拝殿を建築した。」と記述されている。この和霊神社は勧請のいきさつからも分かるように当初は病気平癒に効験があるとして地域の人々に尊崇されていたが、次第に漁業の神として瀬戸内の人々に信仰されるようになったようだ。
<愛媛県生涯学習センターデータベース 和霊信仰の広がり(2) 浮穴政成さんへの取材より抜粋>



この和霊神社は文学的にも興味ある神社で絵馬や奉納額が多数ある。
なかでも和霊神社から見える八景伊予の文人が中心になって詠んだ
和霊祠八景句輯(しゅう)」が印象的。

和霊祠八景句額

八景とは・・

1 奈良原残雪     
2 山嶽桜     
3 大河蛍     
4 里秋月     
5 一九山(まるやま)紅葉   
6 永代橋時雨   
7 人馬往来   
8 社頭松

とのこと。薄くてほとんど見えないが、句額には絵も描かれている。

彫刻もスゴイ。

和霊神社3

ふりむけば・・・

和霊神社4

玉川町の美しい空を望む。

浮穴空



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