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空色野原

空の下 野原にねころんで つぶやく
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No  330

2017四国歩き遍路15~宇和島

5月5日続き。

お昼のパンを岩松の町外れで買う。
メゾン・ド・ソレイユ
行った人のブログ

37メゾン・ド・ソレイユbg

パンを仕入れてまたてくてく。
ちょっと行った左手にもお昼にいいお店、『あすも』があった。
美味しそうなお弁当や米粉パンがある。そこでも食べれる。

宇和島市津島町高田のあたりの景色。

38宇和島市津島町高田bg

松尾トンネルを越す。

41松尾トンネル2bg

祝森地区の普門禅寺子安地蔵堂。(境外仏堂)
国道56号から斜め左にちょっと逸れた細い道沿いのこの石段でお昼にする。

52祝森子安地蔵石段bg

いい子安地蔵さま。門前をお借りします・・合掌。

境内の立看板より(読みづらいところは一部勝手に現代語訳)/旧記の伝える縁起によれば、弘法大師諸国で人々を教え導く道すがら柿ノ木の郷に厚く神仏を敬い、孝行な兄弟の噂を耳にして、旅僧の装いのまま一夜の宿を乞われた。兄弟は快く応じてねんごろにもてなした。大師は信心深く素直な兄弟に報いようと自ら二体の石仏を彫って与えられた。兄弟はこの奇縁に深く感動して兄は地蔵尊松ヶ鼻に、弟は青面金剛松尾坂の麓に小祠を営み、崇敬し供養を怠らなかった。それから幾星霜、いつの間にか小祠は流れ果て、石像の本尊は自然に地下に埋もれ幾百年の歳月は流れた。延宝5年(1677年)3月頃、深田の庄屋河野の祖先、河野勘兵衛通行河野伊予守道直四世の孫)文学・武芸にすぐれ、幾度かの戦功により功成り名を遂げて祝森に老後、悠々自適の閑日月を送る。3月弥生の空、たまたま瓢箪を携え杖をついて松ヶ島の山中に遊んだ。興の趣くままに任せ酔餘石を枕に心地よく睡境に入る。すると何処からか、かたじけなく和やかな相好をしたひとりの旅僧が現れ、「我は地蔵菩薩なり。この山の中腹にあり。大樹の下深く地中に埋まる。十方の人々を教え導く事から遠ざかって久しい。今再びこの村に出現して衆生を救わんと思う。土中をうがち、我を堂内に安置せよ。もし人が我の名を称し敬い供養するならば、もろもろの災禍を除こう。女人が我を信仰するならば安産ならしめる。我、汝が忠実で素直であることを知り汝に告ぐ」と忽然として去る。と同時に通行の夢は覚めた。不思議な夢を見たが深く意に留めなかった。だが、次の夜も次の夜も同じ夢告を受けた。ついに尋常なことではないと沐浴潔斎してその山腹に専心、霊夢を蒙る地下深く埋没由来の発掘すべき地相を教示したまえと祈念する。更に下僕を従え共に発掘に従事する。果たして教示の如く地下八尺(約2m40cm)に至り尊像を拝することとなった。感極まり、丁重にこれを祀る。そして松ヶ島に仮堂を営み、遷座安置する。時に延宝5年(1677年)3月23日。

祝森子安地蔵bg

ソレイユのパン群。やさしい味。
左の茶色いのは塩パン。

45ソレイユパンbg

ここいらには石丸の地名が。
石丸城帰りなので気になる。

54祝森石丸バス亭bg

ここにも。

55石丸自動車bg

あすこにも。

56石丸公園bg

宇和島市内に入った。

64宇和島市内1bg

いきなり歴史がありそう。

元結掛(もとゆいぎ=もっといぎ)の地名のいわれは、信仰の厚い人が、仏道に入るため頭をそって、その髪を「元結い」(まげをしばる紐)で馬目木(まめき=うばめがしの事。現在宇和島市の木。)に掛けておいたから「もとゆい木」と呼ばれるようになったとも、またこの土地は海岸通りで、通行人の元結いがこの馬目木の枝に引っかかるので名づけた、とも言われている。この辺りは徒士や足軽階級の小さなお屋敷やお長屋が多くあったそう。

57宇和島元結掛bg

いい感じ。

58宇和島元結掛2bg

伊藤大輔生誕の地。
日本の映画監督、脚本家(1898年10月12日生 - 1981年7月19日没)。時代劇映画の基礎を作った名監督の一人であり、「時代劇の父」とも呼ばれる。

59伊藤大輔生誕の地bg

馬目木大師(まめきだいし)

62馬木目大師2bg

由来。

弘法大師が開かれた九島鯨谷願成寺は、四国霊場四十番札所・観自在寺(愛南町)の奥の院だったが、離れ島に渡らなければならず大変不便だった。そこで寛永八年(1631)元結掛の大師堂に移し、元結掛願成寺と言った。この寺は明治になってからさらに現在のJR駅の近くの竜光院に合併された。この大師堂が「馬目木大師」といういわれは、弘法大師が九島に「鯨大師」をつくられたものの、海を渡って九島までお札を納めに行くのは大変不便なので、宇和島の海岸にあった渡し場に遙拝所を設けられた。そして「これにお札を掛けよ」と言って馬目木(ウバメガシ)の枝を立てておいたら、いつしか根づいて葉が茂るようになったという。現在もお堂と馬目木が残り、土地の人々の深い信仰の対象となっている。

60馬木目大師由来bg

大村益次郎住居跡。

元の名は村田良庵(または亮庵のち蔵六)、周防国出身(今の山口県)。早くから大坂の緒方洪庵塾に学び医学はもとより兵学にも詳しく、塾頭を勤めたほどの秀才だった。27歳になって郷里に帰り医者を開業したところ、一向に流行らない。長州藩もこの英才に気付かず、一村医者としての不遇な生活を3年送る。大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来訪。高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として宇和島藩主伊達宗城に推挙される。高野長英が去ってから、宇和島藩はこれに代わる洋学者を求めていた。大村は兵書の翻訳・研究や、軍艦設計等にその才能を遺憾なく発揮した。宇和島に在住すること二年余。更に研究を伸ばすために、江戸に上ることを請い、宗城の参勤交代の一行に加わって宇和島の地を去った。江戸に出ると、その深い造詣はたちまち世に知られ、「宇和島藩に村田蔵六あり」の評判高く、徳川幕府の蕃書調所(洋学研究所)の助教授、ついで講武所の砲術教授を、宇和島藩士の身分のままで兼ねることになった。こうなると出身地の長州藩の方では、この人材を見逃したことが残念でたまらない。宇和島藩へ移籍方の頼み込みがきた。たまたま時の藩主宗徳の先夫人が毛利家の出という親類関係もあるので、無下にも断り切れず、これからも宇和島藩の仕事を手伝うという条件で、長州藩へ移籍させた。宇和島藩在籍は約七年間であった。第二次長州征伐の際、長州藩参謀として幕軍の胆を寒からしめ、明治元(1868)年~明治二年の戊辰戦争には東征軍参謀としてその優れた軍略を発揮した。明治政府においては兵部大輔となり、軍事を士族の独占から国民全体の手に移して、近代軍制を確立するために努力したが、道半ばにして保守反動派士族の凶刃に倒れた。

 65大村益次郎住居跡bg

この辺もいい感じ。

66宇和島市内2bg

お、鷺

67宇和島市内3bg

撮りたい

68宇和島市内鷺1bg

飛んだ

69宇和島市内鷺2bg

勧進橋(かんじんばし)
地元の町民が富くじで得たお金で架けた、あるいは勧進講でお金を出し合ってつくった橋だと伝えられている。

70宇和島勧進橋bg

絹巻せんべいとは?唐饅頭とは?

72宇和島市内5bg

駅前の土産店で売っていた『唐饅頭』。もっちり固めで独特の旨味。

「唐饅頭」という名称の起源は不明だが、宇和島伊達藩の文献によると江戸まで運んだと記載され古くからこの地方では唐饅頭と呼ばれているそう。

宇和島銘菓とうまんbg

宇和島城が見えてきた

76宇和島城4bg

大榎通(おおえのきどおり/おえのきどおり)
伊達家入部以前には板島丸串城の外郭にあたり、堀があった。その土塁に榎が植えられ、後に大榎になったので、この名がついたといわれている。また、上士層の屋敷町でもあった。

78宇和島大榎通bg

泊まってみたい、と思ったが、ちょっとお高め。お洒落にリノベーションされた老舗旅館。
KIYA 木屋旅館

明治44(1911)年、創業。政治家では後藤新平犬養毅、作家では司馬遼太郎吉村昭五木寛之のほか、国語学者金田一春彦らが宿泊。明治時代の旅籠の面影が残る木造2階建て。平成7(1995)年、惜しまれつつ廃業。長らくそのままにされていたが、平成24年春、新しい滞在型の観光名所として再生オープン

79宇和島KIYAbg

お城がある町はいい。

80宇和島城6bg

南国風の大通り。
ゴール という気分。

81宇和島大通りbg

今回の歩き遍路はここにて終了~~。

無事、予定通り辿りつきました。
本年も有難うございました。合掌。

(翌日宇和島駅から帰るが、駅前ビジネスホテルに1泊してあとは宇和島観光。)


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